さらば映画の友よ インディアンサマー

1979年 原田眞人監督作品。ローテクでかわいらしい感じのビデオジャケット。映画狂の詩。ご覧になった方の感想を拝見していると「評価が分かれるだろう」と評されたりしている。確かにそうかも。川谷拓三演じる主人公のすごい映画愛、どんなたとえ話も映画になってしまうその感じは他人事とは思えない空気。岡本喜八監督の「肉弾」を鑑賞中、うるさい女学生たちを注意する冒頭は、「肉弾」に想いがあるわが身、同士的な気持ちで嬉しくなったのだが、年の離れた若き映画好きに出会い、その喜びのあまり過剰になっていく姿は、ほんと自戒の念を持たされっぱなし。近すぎて苦しくなった。
川谷拓三が「雨に唄えば」風に踊るシーンなど映画の引用は最初は面白いしあのシーンは評価も高いのだけど、だんだん盛り込みすぎて筋が妄想ともリアルともつかない感じになってき、これは一緒に映画の世界で遊ぶつもりで観たらいいのかなというような気持ちに。座頭市健さん、そして学生運動など68年から69年がテーマなところは自分も好きなのでなじめるし、原田芳雄学生運動に理解もある風に演じる監督で笑えるし(モデルいるのか?)、若き石橋蓮司は妙にかっこいいし、好きな世界ではあるが、確かに好き放題している感じで観る人の気持ちは分かれそう・・と思った。

あの当時の浅野温子の輝き。そうじゃったそうじゃったという気持ちに。ボーイッシュな恰好に色気を感じるような、挑戦的なところがかわいいようなそういう空気。今ももしかしたら芸風はあまり変わっておられないのかもだが・・

ピンクサロン 好色五人女*1で注目した山口美也子氏も、ログハウス風喫茶店を経営する室田日出男(主人公の父)の麻雀仲間で仲間の中には鈴木ヒロミツ氏もいたり、ああいう空気はリアルな感じがして楽しいのだが。。そこを楽しみたい人にはすすめられる映画かな。。

 

ディープ・ブルー・ナイト

1985年 ペ・チャンホ監督作品。

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twitter韓国映画好きの方がこの作品のvhsを手に入れて鑑賞された喜びを書かれていて、自分の行きつけのふや町映画タウンに在庫あるのだからさっさと観なければ!という気持ちになった。ペ・チャンホ監督がアン・ソンギと組んだ前年の「鯨とり」*1も大好きだったし。

この作品の舞台はアメリカ。永住権のための偽装結婚の話。アン・ソンギの誠実にも人をだましているようにもみえる自在で巧みな演技力で成り立っている物語。監督はヒッチコック好きなんじゃないだろうか。「北北西に進路を取れ*2や「泥棒成金*3「断崖」*4を思い出すようなシーンも。アン・ソンギはペグという韓国名で、目的のためには手段を選ばないような人間なのに、紳士的な印象のグレゴリー・ペックなんて米名にするところに皮肉や、監督の映画好きを感じたのだが、調べてみるとグレゴリー・ペック自身ある時から印象を大きく裏切る役柄を演じて評価されているらしい。さらに深かった。

偽装結婚の相手はチャン・ミヒ。真の主人公は彼女では?池上季実子似の彼女、なりも態度もハードボイルドでかっこいい。猫との暮らしもエリオット・グールドの「ロング・グッドバイ*5風。(しこもネコ重要な働き!)チャン・ミヒ氏は現在もドラマで活躍されているらしい。

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ピンクサロン 好色五人女

1978年 田中登監督作品。

 

冒頭「故 井原西鶴氏に捧ぐ」の文字。そして始まるピンクサロンのお盛んなさま。西鶴、教科書に出てくる元禄文化の代表者ということで何か挑戦的なおかしみを感じたりもしたが、文化デジタルライブラリーの元禄文化の解説*1を読むと西鶴は庶民の生活や遊女の暮らしをリアルに描いてきた人とのこと。それじゃあ確かにこの映画そのものだし冒頭の言葉はウケ狙いでもなんでもない、本気でこの時代にロマンポルノで西鶴を表現したんだなとなった。

雷蔵さんの演じた増村監督の「好色一代男*2はとても陽気なものだった印象だけど、こちらの映画はまさに性と死は隣り合わせで、死を一時忘れる中での性、でもそれをつきつめたところにあるむなしさみたいなものが終盤の琵琶湖湖畔での老域に達しかけた男とサロンの女の出会いなどで色濃く出ている。そして、このあきらめと心の新境地が混ざり合ったような心中のシーン、文楽で描かれる道行ってつまりこういうことだなあという気持ちになった。

冒頭の軍艦マーチのサービスタイム的な描写、1982年の「キャバレー日記」*3でもそういうシーンあったなと。「キャバレー日記」、キャバレーという名前から、何かショーを中心とした酒場みたいな印象を持っていたためやっていることの過激さにびっくりしたのだけど、あれはつまりピンクキャバレーという分類?

ともあれ、あの勇ましい音楽が、「『何でもし放題』っていっても、すること考えるのもタイヘンだし・・」なんていってる終盤の老人の姿とも重なってむなしさをより駆り立てるし、途中そんな空気を振り払うように元気に踊っていた山口美也子氏の一瞬の輝き明るさともまざりあって複雑で多層な色彩で映画を塗りこめている。

そうそう、山口さん演じる女はストリップ出身という設定でピンクサロンに引き抜かれる前、なかにし礼の「時には娼婦のように」にあわせて舞台をつとめているのだけど、その突き抜けた明るさ、なかにし礼自身が主演の同タイトルの映画のハンサムななかにし礼の自己愛強そうな振る舞いが気になる映画*4よりずっとずっと素敵な楽曲の活かし方だなあなどとも思った。

 

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※追記:一度この記事を書き終わってからtwitterでフォローさせていただいている横浜SANさんがこの映画のことをまとめておられるnoteを拝見。本当に密接に西鶴の原作とリンクしていると知る。そして、中丸信さんの色男っぷりも特筆だったことを思い出した。あのエピソードはお夏清十郎だったか・・。印象的だった山口美也子さんの名前もこちらのnoteでやっと確認。自分の記事に反映させていただく。

トラック野郎 御意見無用

 

1975年 鈴木則文監督。

初トラック野郎。観たことなかったのにイメージだけ定着し、菅原文太さんが亡くなられた時、ほんとは読書家のインテリである文太さんがこの映画の主人公みたいな人物と思われている。。とやや不満だった。が、それは観るまでの意見。やはり大ヒットしてシリーズが作られた一作目。なかなか良かった。

相棒の愛川欽也氏のやもめのジョナサンなんて名前もあの時代らしいし、ジョナサンが元警官で現職時代は必死で取締をしたけれど、取り締られる方の立場に身を置いてみれば。。なんて描写もあり、「北国の帝王*1の続きを観ているような心地にも。

二人に絡む湯原昌幸氏も懐かしい。

そしてしょっぱなから緊急車両を装ったり、作品の中随所で警察の静止を振り切りまくるアナーキーさ。ただしとりあえず命にかかわるような犠牲者は出さない節度。

子どもを拾っての人情噺と青森のねぶた、仙台の七夕、松島や渋民村(啄木記念館近く)など東北の観光も織り交ぜるロードムービー。寅さんの向こうを張っていたんだなという娯楽作。

ちょろっと出てくる芹明香も嬉しかったし、twitterで邦画ファンの方に大人気の佐藤充氏の活躍も楽しい。彼とのやりとりなんかは西部劇ぽいノリも感じる。彼の妹役、モナリザのお京に扮する夏純子氏、からっとして魅力的。

そしてダウンタウン・ブギウギ・バンドの面々。製作当時の空気を一杯に吸えたのしいひととき。

ザ・ペーパー

 

1994年 ロン・ハワード監督

NYの大衆紙を舞台のこの作品、「ER」とか、アメリカの良質のTVドラマと手触りが似ている。クライマックスに向け様々な問題が集約されマグマ的エネルギーで落としどころを模索→そして解決という職人技を感じる作品。

ロバート・デュバル演じる編集長の前立腺がんを告知されしんみりなる心境、年齢が近いだけによくわかる。最近ほぼ同世代と思ってきた人たちの訃報が重なりしんみりしようと思えばいくらでもしんみりできる感じ。これがこれから加速するのかと思うとこの気持ちに耐えてきた人生の先輩たちに改めて想いを馳せてしまいさらに想いに押しつぶされそうな日々。劇中でも家族など顧みずやってきた彼が告知以来、自分の人生をみつめるモードになってしまい、ほとんどほったらかしだった娘に会いに行くが娘はなんのことやらというシーンがあるが、この温度差の表現も気に入った。ほんと若い頃は親の突然のウェットなノリなど一顧だにできないものでその年齢になってやっとわかる心境。だから理解してもらえなくてもこどもを恨む必要はないし、なんだか親の弱気にクールだった自分をそう責めないでおこう、と、ちょっと自分を俯瞰できる。ロバート・デュバルは、マイケル・キートン演じる主人公がひょっとしたら陥る未来を描いていてアメリカ映画らしいまっすぐなわかりやすさで面白い。そして、ロバート・デュバルといえば、「ゴッドファーザー」で知性的なトムを演じていた俳優さんと気がつき、トムの姿も重なってますます趣深いものに。

グレン・クローズ演じる辣腕上司はコストカッター的で主人公から煙たがられているが、彼女の辛さや長所もちゃんと描かれ、共感できる演技。他にも新聞に書かれたことで散々な目にあった人間のエピソードなどもさらっと入れ、それがメインの事件ともちゃんとパラレルになっていて、巧みだし、みているうちにみんな幸せになってくれと願ってしまうようなこの頃合い、正統派アメリカ映画的楽しさを味わえた。

ミス・サンシャイン

 

横道世之介」の続編から始まって吉田修一熱が高まった今年。「国宝」を読んで吉田氏の歌舞伎ひいては芸能への熱を感じ、その資質を活かした本をさらに読みたいと探して、往年の映画女優を主人公にしたこの作品に出会った。今回もまたヒロインのモデル探しをしてしまったが、「国宝」と同じく誰がモデルというのではなく、「ある映画女優」としての造形が完璧にされていて、フィクショナルな存在だ。ただ素地となったものには、京マチ子を感じた。大事なのは女優とこの物語の語り手である大学院生がともに長崎出身で、読み手を決してしんどくさせない自然な形で原爆のこと、その後遺症、米国での被爆者の扱いなどが描かれていること、だからといって原爆の小説というカテゴリーのものではなく、それは人にふりかかる様々なものの一例であり、誰かが先に亡くなった誰かのことを偲ぶことというものがテーマである。そして、それが、吉田さんの作品ではいつも感じるのだが、決して湿っぽくなくでもあたたかに寄り添って希望的に描かれる。

「国宝」を読んだ時受けた迫力のまま、映画の世界に置き換えた「国宝」のつもりで読み始めると少しおとなしいかなと思うけれど、戦後の日本映画界の空気を愛すべき横道世之介が吸いにいったと思えば落ち着くような作品。

北国の帝王

 

1973年 ロバート・アルドリッチ監督作品。

すごく男くさいタイトルで長らく自分から遠いものと思いこんでいたが、同監督の「カリフォルニア・ドールズ」「ロンゲストヤード」*1等がえらく気に入って続きを物色していたところ、居島一平坂本頼光の暗黒名画座で紹介*2されその解説をきいてすぐ観ることに。

大恐慌後、人々が仕事にあぶれ別天地を求めて貨車に乗り込む姿なんかをよく映画でみるが、リー・マーヴィン演じる無賃乗車民ホーボーの帝王、エースNo.1とホーボーを憎み「オレの汽車には紛れ込ませない」と豪語するアーネスト・ボーグナイン演じる車掌シャックのプライドをかけた文字通り命がけの丁々発止を描いたもの。余裕のない社会の中、労働の格差、差別、そこからくる憤懣などが何層にも織り成され、そのエネルギーを背景に一つの希望としてのエースの挑戦がある。

1930年代という時代は、「怒りの葡萄*3の時代でもあるのだなとその関連も感じた。

人間の配置が面白く、ホーボー取り締まりへの熱中ぶりが異常の域にも達しているシャックをあきれ顔でみつめる機関士、事なかれ主義でホーボーとの対決などしたくない部下などが丁寧に描かれ、これらの鉄道員たちの存在が物語の土壌となって濃い出来上がりとなっている。

そこに、キース・キャラダイン演じる鼻っ柱の強い若者がエースにからみ、そのやり取りも全く甘くないし、かなり意表を突く展開をしょっぱなからエースがみせ、見ているこっちも驚かされるし楽しませる。エースというのは超法的ではあるが、生活の知恵に満ちた人間で、明晰にものが考えられる賢者、そしてユーモアもあり愛される人物である。

終盤、車掌とエースとの一騎打ち、これが鉄道の取締を巡る話か!と思うような敵討ち的な様相も秘め、心地よい重厚さが時代劇のようであった。

 

参照:wikipediaの「ホーボー」の項もなかなか面白い。