森崎東監督映画を二作品観た。「時代屋の女房」は、ふや町映画タウンおすすめ☆☆(けっこうおすすめ!!)。
「時代屋の女房」(1983)は同じ村松友視原作の「泪橋」*1(1983)と、「生きているうちが花なのよ~」(1985)は「原子力戦争」*2(1978)とイメージが重なった。「泪橋」も「原子力戦争」も黒木和雄監督のもの。黒木和雄監督は1930年、森崎東監督は1927年と生年も近いこと、反権力の通奏低音、キャストの重複などが自分の中で重なったか?トータルで今まで観た作品群からの印象だと、黒木和雄監督のものの方が端正にまとまっており、森崎監督のものは強い勢いでどこに飛んでいくのか・・というところを感じるのだけど 、この二作品に関しては似通った空気を感じた。
「時代屋の女房」を観た時、80年代に原作を読んだときはもっとさらっとしたイメージだったのだけど・・という気持ちになり、原作を再読した。
この「P+D BOOKS」というのは、現在入手困難となている作品をB6判ペーパーバックス書籍と電子書籍で発売する小学館のブックレーベルらしい。「時代屋の女房」、直木賞受賞作品だし映画とのメディアミックスで売れに売れているイメージがあったけれど、入手困難になっていたのか・・80年代ぽさは満載の作品ではあった。
やはり自分の印象通り、原作にないことがいろいろと映画に付け加えられていた。夏目雅子が二役を演じている美郷という女性*3と主人公との関係は原作と変えられていて、自分には悪い意味の追加という風に映る。主人公の女房への誠実さに疑問を感じるような寄り道展開にわざわざなっている。80年代という時代の空気もあるのか?
「のぞきからくり」というものを求めて盛岡に行くシーンは映画独自のものだったが、こちらはよかった。出てくる「のぞきからくり」というのはなかなか隠微なところもあり、この辺で映画の「泪橋」の世界とも重なって感じたけれど、「時代屋~」の方が猥雑だけどからっとした表現になっていた。
映画で津川雅彦が演じるマスターの関西なまりは、原作通りであった。津川雅彦、普段あまり関西弁の姿をみかけないように思うけれど、津川氏が関西弁を使うところはさすが京都生まれという色気やたおやかさがありとても好ましかった。
渡瀬恒彦演じる主人公はいなくなった女房真弓を恋しく思って意気消沈、プレイボーイを演じる津川雅彦も引き際を意識するような年齢に、飲み屋でつるむ相手クリーニング屋の主人大坂志郎も昔のロマン求めて元気になったりしぼんだりと、今を生き抜く女のたくましさに対して男たちの元気のなさは・・というあたりは森崎監督作品らしさだろうな。
原作では違う日付だった、大坂志郎のかばんから出てくる切符の日付を2・26事件の日と重ねてあったり、津川マスターと時代屋主人が過去を話すとき学生運動が関係しているのかというような会話を織り込ますところなどは森崎東の社会性を感じた。学生運動というワードは映画の「泪橋」とも重なった。*4
「生きているうちが~」の方は、冒頭中学生たちが平田満演じる先生を誘拐しというところから始まり、原発ジプシーといわれる原発作業員、ドサ周りのダンサーなどをからめてある話。森崎監督作品で時々*5見受けられるあふれる意気は十分すぎるほど伝わるけれどいよいよ終盤話が凝りすぎてわからなくなってしまう部分があるようにも感じた。