ノートル=ダム・ド・パリ

先日Eテレの番組「100分de名著」の再放送で、「ノートル=ダム・ド・パリ」を取り上げていて興味を持ち、映画化作品三本を観てみた。www.nhk.or.jp

 

みたのは以下の三本。

映画化では結末も、登場人物の役回りもテレビでなぞった原作と同じところ、違うところなど様々であった。

 

eiga.com

 

movie.walkerplus.com

 

eiga.com

 

ふや町映画タウンの大森さんとも話していたのだけど、1923年の無声映画版が一番映画としてよい感じがした。本の中に迷い込んだような風情。そして、1956年版はカラー作品でとてもわかりやすい感じはしたが、ちょっと紙芝居的というか、こんな時のたとえでどうかと思うけれど、溝口版「残菊物語」*1と大庭版「残菊物語」*2みたいな差を感じた。

「100分de名著」の鹿島茂氏の説明で、ヴィクトル・ユゴーは、父と母の教育方針がまるで違っている二律背反的な家庭で育ち、引き裂かれた自己のような部分があると知ったが、登場人物の中で聖職者のフロロというのがまさにそういう人物で、ジプシーの女、エスメラルダに興味を持ってしまう苦悩は1956年版が一番はっきり描いていたみたいにも思う。(悩んでますよ、とくっきりと)。1923年版と1939年版では、フロロのやらかすことを、フロロでなく弟のことにしてあって話が整理してある。(聖職者じゃマズいから?)1939年版の弟(フロロ伯爵となっていて、聖職者自身にはしてないが、原作のフロロの感じを受け継いでいると思う)のいいわけは、いってることは無茶苦茶にみえるが(俺を狂わすあの女がいけない、女を断罪せよと自分の罪をなすりつける)、混乱した自己に整合性をつけようと必死な感じ。追い込まれし優等生的なものもあり、屈折した色気も感じた。サー・セドリック・ハードウィックという俳優さんが演じたらしい。

ルイ11世時代の話のようだが、王よりも強大そうな教会の権威、それへの民衆の反発みたいなのがそれぞれの映画で形を変えて描かれている。しょっぱな出てくるのが、変な顔コンテストみたいなイベントで、件のノートルダムの鐘撞き男カジモドが祭り上げられるのだけど、1956年版では「バカ法王選び」みたいな呼び方をしていて、大胆。その前も聖劇に大衆があきあきしているシーンからのスタートだし。

ルイ11世はどれも割合親しみやすい感じに描かれていたと思う。1939年版の王についてはこちらのブログに詳しく書かれている。

「100分de名著」でも、原作に映像のようなすばらしい描写がなされていることが語られいたけれど、確かにノートルダム大聖堂ガーゴイルと、カジモドの様子などはとても調和していて絵として完成している。(特に1939年版。1923年版もいい。)

ジプシー娘エスメラルダは1923年版は可憐、1939年版は凛とした美女、1956年のジーナ・ロロブリジーダが一番それっぽいかな・・でも、可憐なサイレント版も好きだなあ。小さい時に両家からさらわれたというエピソードもさもありなんな感じで。

ヤギを使った芸、それがまた魔女ということになる流れなど非常に中世的であった。

鹿島茂氏も、「100分de名著」のコラムで「ノートル=ダム・ド・パリ」のごったまぜ感について書いておられたが、さまざまな要素が盛り込まれている感じで、どこの部分を活かすかで映画の雰囲気も変わってきていると思われる。

テレビで映像が使われていたのは1939年版。

あとからノートルダム寺院の鐘のことをみていると、それぞれに名前がついていたりして、物語の中でカジモドが説明していたのを思い出す。