クシシュトフ・キェシロフスキ監督、名前は存じ上げているけれど敷居を勝手に上げ、観る機会を逸してきた。
先日twitterで、#映像美がお勧めな映画10選 というハッシュタグで複数の方がキェシロフスキ監督の「ふたりのベロニカ」を挙げておられ観てみることにした。
久しぶりの本格洋画、繊細に作られた上質の食事をしているような充実感に包まれる。筋は見た目もそっくりなベロニカという二人の女性がポーランドとパリにいて、というストーリーで、ケストナーの「ふたりのロッテ」も思わすのだけど、「ロッテ」のような種明かしはなく、パラレルワールドとか、心理学の授業できいた自分の人生で実行できなかった影に惹かれる話などを想起させられるものだった。時々耳にする双子の共時性なども。
そのあと続けて「トリコロール 青の愛」、「デカローグ」の第一話、第二話を観たのだが、いずれも死がとても身近な存在として出てきて、近年肉親や友人を亡くすことに見舞われた自分には親近感を持てるものだった。そして、twitterで言及されていた映像美、これはどの作品にも共通である。「ふたりのベロニカ」では美しい人形劇のシーン、「青の愛」ではタイトル通り青に彩られた場面、特に美しい青いシャンデリアなどが印象的。巨大団地を舞台にしたオムニバス「デカローグ」では、老医師の部屋や服装に至るまで薄いグレーが混ざったような詩的な映像が表出、病室の古い鉄管から漏れる水滴や医療器具に至るまで美しかった。
「青の愛」では、聖書の中の「コリント人への手紙」のこの言葉が出てくるのだが、
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
コリントの信徒への手紙一 13 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)
ミッション系の高校できいていたこの言葉、つまりこういうことなのだなと理解できた。
「十戒」をテーマにしたという「デカローグ」の方でもこの文言は出てこないまでもやはりこの言葉を意識させられる流れがある。字面でみると深淵すぎてとっつきにくい「生きるとは」「愛するとは」というテーマがいずれもごくごく身近に起きそうなタッチのドラマとして、しかしながら香気に満ちて描かれていて観ていてこういう時間を持ちたかったんだという気持ちになる。