春の消息、魂の秘境から

春の消息

春の消息

柳美里氏と佐藤弘夫氏が死者と生者のまじわりの場所を訪ね歩いたもの。写真 宍戸清孝氏。
いわゆる「死んだ子の年を数える」みたいな死者とのかかわり方にはついていけないものを感じていた自分だったが、つい最近母を亡くし、死が身近になった今、この本にたくさん描かれている、生者が死者との交流をするようになっている色々な場所をとても親しみ深いものとしてみている。写真と共にお二人と巡礼の旅に出ているような本だけど書かれていることは革命的でもあった。

柳氏、独身時代の刃物のようなひんやりした文章には緊張を覚えたり、またそのあとの東由多加氏とのことも驚きは感じつつきっちりは触れたりしてなかったけれど、福島で本屋をされているというようなこともきき、その辺を知りたく思っていたところでちょうど良い出会いだった。その後の柳さんのことを、まるで大人になってからの同窓会のように聞きやすくまろやかになったタッチで知ることができた。

佐藤さんのおっしゃっている、死者と生きているものの境目をきっちりつけすぎた挙句、

死んだらどうせ終わりだから、生きているうちにせいぜい好きなことをしようという風潮が、今日多く見受けられます。これは縦横に広がる無数の生命の繋がりの中に居る自分の立ち位置を忘れた見方であり、未来に対する自らの責任を放棄しようとする発想です。
(中略)
生者の論理で世界を見つめるのでなはなく、死者の視点から今の時代を問い直すことが求められています。

という言葉、石牟礼道子さんが水俣病を見つめ続け、それを誰の責任ということを超え、こういうことが起きた「受難」としてとらえる考え方ともつながるものを感じた。誰かの責任で終わるものでなく、もっと広い悲しみ、人間が万物のトップみたいな考え方の驕りについて落ち着いて話されていた石牟礼さん。少し前「魂の秘境から」という朝日新聞に載せておられた連載をまとめたものを読んだけれど、石牟礼さんがどういう風にして育ってこられたかが、豊かに味わえ、でも同じ環境に囲まれていたら誰でも石牟礼さんになれるかといえばそうではなく、特別の感じ、考える能力を持って育たれたことがしっかりわかる。今年の2月10日に亡くなられる直前1月31日が最後の連載であったことなどにもはっとさせられた本だった。石牟礼さんの本ももっと読みたく思っている。

魂の秘境から

魂の秘境から