平家物語 犬王の巻

 

5月に観に行った映画「犬王」*1の原作。原作を奨める言葉が語られもしていたので読んでみた。これを読むと映画で音楽が70年代ロック風だったのを残念がる声がちょっとわかる気もした。「犬王」の前に公開されていたアニメーション「平家物語」(原作者もアニメーション担当会社も同じ)では琵琶の音を効果的に使っていたし、原作はまさに平家琵琶と猿楽の画期的な出会いを琵琶法師の語り口のような口調で描くものだったから、琵琶は使わないのか?と。また、多分製作者の意図とすれぱ既存社会への挑戦の意味があった70年代ロック風の楽曲を使ったけれど観客にとっては聴き馴染みのある音ゆえ気になるところだったのだろうなと。映画のパンフレットを再度読み直しにいったら脚本家の八木亜希子さんが打ち合わせの初期の頃から監督より「ポップスター」や「フェス」という言葉が使われて喩えと思っていたら喩えでなく本気でそっちがやりたかったんだ、自分は能のことを調べてそれに則ったものを想定していたのにという話があり、この辺とも関係ありそうと思ったり。

原作は大筋は同じとしても映画と終わり方も流れも違っている。一番違っているのは犬王の父のスタンスかな。映画ではただ焦っているだけの人物にみえたが、原作では魔性のものと取引してトップに輝いている人物として描かれている。

映画のなかでは足利義満の介入が今の時代への思いもこめた気配で描かれているが、原作でも権力者がその時の都合で琵琶法師 友一の運命をかえてしまうことが出てくる。規定事実のようにさらっと書かれているところにリアリティを感じる。

7/5の京都新聞祇園祭の歴史を書いた記事が載っていたが、中世祇園祭祇園会)を研究する奈良大の河内将芳教授によると、町衆が自立的に担い、時に権力に抗して営んだとのイメージを抱きがちの祇園祭だが、実際には形式や巡行コース、時期の変更など室町幕府延暦寺といった中世の権力者の意向や力関係もかなり反映しているものだったという。この記事を読んで、犬王に出て来た事柄をよりリアルに感じた。