処女の泉、鮮血の美学

ベルイマンの「処女の泉」(60)とそれに影響されたというウェス・クレイブンの「鮮血の美学」(72)を鑑賞。

まずはベルイマン

観ていてサラ・ムーンの「赤ずきん*1の物語を観たときのまがまがしい空気と似たものも感じる。

格差社会において持てるものの鈍感さが招く悲劇とも感じられたし、神は人間の都合の良いように動くものではないということを「沈黙」*2や「奇跡の海*3に引き続き感じたりもした。

この映画は「羅生門」を意識しているとDVD(キングレコード)同梱の大久保清朗さんという映画評論家の方の解説に書いてあるが、「羅生門」の光と影の表現にも通じるような映像の繊細さ、影の雄弁さを感じる。撮影はスヴェン・ニクヴィストという方。以降ベルイマン映画に不可欠のものとなるとのこと。

とんでもない悲劇だけど、妊娠中の使用人の若い女、そして彼女が帰ってからの扱いなどみて冒頭からこの金持ちの家庭に流れている妙な心の行き違い、ぎくしゃく感が形になったような気もし、深田晃司監督の「淵に立つ」*4や「海を駆ける*5を観たときのような心持ちにもなった。罪を背負うというととが描かれていて。「よこがお」*6なんかもそうか。

「処女の泉」はふや町映画タウンおすすめベスト1000 (ちょっとおすすめ!☆)

 

鮮血の美学

確かに「処女の泉」を70年代のアメリカに置き換えたらこうなるなと思う。この作品でも分断した社会の中で理解が及ばない悲劇が描かれている。やることは凶悪だが、凶悪犯の顔をしていない感じが余計怖い。「0課の女 赤い手錠」や「人妻集団暴行致死事件」*7、「ファーゴ」の連中みたいな非プロの、計算ができない相手の恐ろしさ。終始かかるSEや音楽も間の抜けたものでありこれすごくいいセンスだと思う。

「処女の泉」で神にあたるものがこの映画では警察。ここもなるほどと。その沈黙というか意識の低さが笑いにもハラハラ感を増すのにも一役。

展開も気持ちの良いものではないし、終盤はやりすぎだろ、と思ったが、映画全体のセンスは画期的。