大阪アースダイバー

あとがきにあった、東京のセンスで大阪をみると見誤る・・西日本の稲作文化と東日本の狩猟文化との差異、タブーの違いという話は大変参考になる。そして、現在の大阪の疲弊と維新の会についての文章、なんと今日的であることか。

自分へのメモ(自分なりの理解が正しいのかどうか自信がなく、そのままの引用が多くなってしまう。。)
p84

 古代社会では、どんな生産物にも、それを生み出した土地や、それに所有権をもつ人の霊力(タマ)が宿っていると考えられていたから、自由勝手にモノとして売り渡したり、買い取ったりすることは難しかった。人から人へ、モノの所有の移動がおこるとき、モノといっしょにタマも移動した。
 そのために古代社会では、あらゆるモノの交換が、「贈与」のかたちをとることになった。贈与社会では、モノの交換がおきているところでは、かならず人格や愛情や信用や元気の交換も同時におこなっていて、それを通して人と人の間に絆が発生することになっていた。

人間には所有には属さなくなった神へのお供物にふれたあと、そのお余りを商品として扱うことによって、供御人がはじまりの商人になったと、そして、

商品とは「無縁となった」モノの別名である。商人は、無縁となった商品を、軽々と扱うことができた。もはや商品となってしまったモノからは、もともとの所有者の人格やそれを製造した人の思いも、すっかり断ち切られているので、後に残るのは商品としての価値だけ、これを同じ価値をもった他の商品と交換することには、なんの同情も共感も必要とはしないだろう。

自由な商品の流通が、はじまろうとしていた。どんな品物も、神仏のもとに無事にお供物として届けられるためには、あらかじめ人間世界との縁を切って身軽になったうえで、超越的な世界へ向かっての跳躍をおこなったのである。その跳躍のおこぼれにあずかった余剰の品物が、商品として出現することによって、この列島に資本主義は生まれたのである。そこには、無縁の原理が強力に働いている。

考えさせられる。なるほどと思うことも大いにある。
でも流れは抗いがたく、この世の中で自分の生き方にどう反映させるかということはまた別だけど。

p171
名護町 住吉大社を通って四天王寺のある上町台地に続く、紀州街道の両脇に出来た細長い形をした町。別名長町というらしい。そのはずれあたりに合邦辻。
「摂州合邦辻」「新版歌祭文」の舞台。
「摂州合邦辻」ー「現代の臓器移植事件をも連想させる」・・そうか・・

p177

仏教者というのは、社会の境界にたたずんで、社会とその外にあるものとを媒介しようとする生き方を、実践する人たちのことを言う。

古代では仏教が、プロレタリア的な人々に対して生存のための受容器をあたえ続けた、という話。近現代では、釜ヶ崎で、現世では財産を捨てた無産物のキリスト教の修道女がたちが、愛隣的実践に、我が身をささげているとのこと。。

この辺も新自由主義への言葉なんだろうな・・

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