走れメロス

新潮文庫の今の字組、手触りが大好きで、雨の中ずっと太宰治の作品を読み続けるのが本当に楽しくて。太宰治、若いころは書いてある内容にぐっときたりしていたけれど、今は文章のリズムや終わりの文章のとめかたなどに気持ちがいく。「駆け込み訴え」は何度読んでもリズムがよくて、名優のお芝居のよう。
富嶽百景」「東京八景」「帰去来」「故郷」など身辺の人が出てくる作品群に特に惹かれた。若いころ「富嶽百景」を読んだときはおとなしすぎる感じに思えたりもしたのだけど、太宰の人生をその時よりはもう少し知ってから読むと全然違うし、いとおしくも楽しめる。青森旅行の時に行った太宰治疎開の家(生家の離れが移築されたもの)で、「『故郷』でお母さんが床に就いていたのがあの部屋です」とか教えてもらっていたので、「故郷」の中の描写はとても具体的に頭に浮かんだ。

「東京八景」で、最初の妻初代といろいろあった挙句、一人になって世間の評判にもぼろぼろになって、最下級の下宿から一歩も出たくなくなったりして、でも

酒のない夜は、塩せんべいを齧りながら探偵小説を読むのが幽かに楽しかった。

と書いてあるのが、復調していくときの感じが出ていて心に残る。

そのあとの

相次ぐ故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起こしてくれた。私は故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。

さらに

なお又、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうにも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。

なども。

ラスト近く義妹のいいなずけを戦地に見送るときの大声のシーン、これがもう、青森の小説「津軽」の像記念館で復元されていた太宰の声できこえてきて、そのあとふっと力を抜いたりするこの塩梅がすばらしくて。

小説なんだから事実そのままではない部分もあるだろうけれど、読んでいる人が目の前に広げられている物語をよるべにできる高貴な精神があって、それは、「走れメロス」などに流れているものと同じもので、それをあらわす表現力にうたれた。

「女生徒」に「濹東綺譚」が出てくるところで、荷風のことを

この作者は、とっても責任感の強いひとのような気がする。日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反撥して、へんにどきつくなっている作品が多かったような気がする。愛情の深すぎる人に有りがちな偽悪趣味。わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。けれどもこの濹東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。私は好きだ。

ってところ、「濹東綺譚」をまだ読んでいないのに首肯しながら読んでしまった。

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)